近辺情報

名越切通し・まんだら堂跡

名越切通し

名越切通しは、戸塚宿から浦賀へ続く浦賀道の一部である。<Wikipediaより>

切通しを含む名越路(名越坂とも)は、より南側にある小坪路とともに、かつては鎌倉から三浦半島へ連絡する数少ない陸路であった。鎌倉側の地域名ともなっている「名越」の名は、この道が峻険で「難越」(なこし)と呼ばれたことに由来すると言われる。

鎌倉側から見て、名越路の左側の尾根筋は、鎌倉防衛の拠点と伝えられる「大切岸」(おおきりぎし)と「平場」を交互に組み合わせた構造が約1キロメートル続く。鎌倉幕府にとって衣笠城を拠点とする三浦一族は大変な脅威であり、対する防衛の最重要拠点であった。途中には、やぐらが密集した「まんだら堂やぐら群」がある。逗子側出口近くの切通しは特に狭隘で、「おおほうとう」(大空洞)と呼ばれる。

鎌倉から金沢六浦津(現在の横浜市金沢区)方面への朝比奈切通しが重要路線として大規模に整備されたのに対し、名越切通しは狭く通行しづらいが、鎌倉七口のなかでも、初期に近い姿をよく保っているとも言われる。

逗子方面への通路で、上記大空洞といわれるところ。 馬一頭がやっと通れる幅しかない。三浦一族もこれでは侵攻意欲も湧かなかったことだろう。
反対側は鎌倉への道。 これを抜けると鎌倉の街が一気に開ける。
切通しの逗子側のすぐ先に300mにも及ぶ大切岸がある。切岸は山の斜面を垂直に削った防衛施設である。崖の上は平場になっていて、敵の進入時にはそこから矢を射かけられるようになっている。

まんだら堂跡

この一帯はまんだら堂跡と呼ばれているが、曼荼羅堂が実在したという資料はない。しかし無数のやぐらや五輪の塔が鎌倉時代のまま残っており、現在は国の史跡に指定されている。通常は調査・整備のため閉鎖中だが、期間限定で春と秋に公開されている。

岩壁に穿たれた穴(やぐら)は鎌倉時代の御家人や僧侶の墓所と考えられ、前面の平場は庶民の墓場と考えられている。

第2次大戦後まんだら堂跡には法華経の行者が妙行寺を建て、行をする傍ら辺りを整備し、今は菖蒲や紫陽花の名所ともなった。この当時行者が叩くうちわ太鼓の音は風に乗って、サロン・ド・ロンドの家まで聞こえてきた。